神様の名前を書くということ - 鶴岡八幡宮 -
御朱印集めを始めてから、もう8年近くになる。
旅先などでは御朱印帳をうっかり忘れていくことも多く、なかなか集まらないのだけれど、一年にいくつか頂くペースでじっくり集めている。 その御朱印帳について、私は最初の頃から2冊を一定のルールに従って使い分けをしている。 至極簡単なルールで、1冊は神社用、もう1冊は寺社用という使い分けである。 ところが、ここ最近になって、この使い分けには重大な欠点があることに気づいた。 どこへ行くにも常に2冊を持ち歩かなければならない=荷物が増える、という点である。 ありがたい御朱印を頂く台紙ということで、御朱印帳の装丁はそれなりの立派さを兼ね備えている。 当然、少し薄めのハードカバー本くらいの重さがあり、2冊を鞄に入れたなら、結構な重さになる。 そんなわけで、この分け方はうまくないなあと常日頃から思っていたのだけれど、かれこれ8年もそう続けてきてしまっていたので、この慣習から抜け出すきっかけを自分でも掴めずにいたのだった。 この日、友人とは長谷に行くことだけを決めていたので、鶴岡八幡宮のほうには来ないだろうとなぜだか思っていた。そのため、寺社用の御朱印帳だけしか持ってきていなかった。 ところが浄妙寺から鎌倉駅に戻る道すがら、珍しく人の少ない静かな境内に惹かれて、鶴岡八幡宮に立ち寄ることになった。 友人も御朱印集めをしていて、鶴岡八幡宮で頂くというので、一緒に御朱印所へ向かう。 先の理由で私は御朱印を頂かず、また次の機会にしようと思ったのだが、友人が頂いた御朱印を見て急に考えが揺らいだ。 それは、凛とした筆先の動きを感じるような、とても美しい筆致で書かれていたからだった。 「とても綺麗な字。どうしよう、私も書いてもらいたくなっちゃった」 素直にそういうと、書いてくださった神職さんが物腰柔らかに「ありがとうございます」とおっしゃった。 並んでいる人もいないので少しお喋りをすることにして、自分が御朱印帳を2冊に分けていること、神社用のものを今日は持ってきていないこと、使い分けをやめようかと思っていることを告げた。 「良いと思いますよ。仏様も神様も元は同じものですから」 その言葉が、奈良時代から続く神仏習合の考え方を言っているのだということはすぐにわかった。 そういえば、神仏分離を行ったのは明治時代になってからだと高校の歴史の授業で習った。随分と昔から、日本人は神と仏を同じものとして扱ってきたのだ。 その言葉は、私がずっと欲しかったきっかけになった。 「それでは私にも御朱印をいただけますか?」 御朱印帳を差し出すと、両手でそれを受け取って、神職さんがまたすっと筆をとる。その動作がとても滑らかで綺麗だったので、少し見惚れてしまった。 どこにも力が入っていないように見えるのに、背筋はすっと伸び、止め、撥ね、払い、なめらかに筆が滑っていく。その筆致だけで、静かな精神状態が伝わってくるよう。 "鶴"とか"幡"とか難しそう、と言うと、ええ、そこは結構苦労がありまして、と冗談混じりに言ってくれる。 「本当に上手。書き崩していないのにとても趣がある」 と言うと、神社では文字は書き崩さないんですよ、と教えてくれる。 「神様の名前ですから。書き崩すような恐れ多いことはできないんです」 ああ、それで神社で頂く御朱印はいつも教科書の楷書体のようなものが多いのかと納得する。 寺社で頂く御朱印は力強い行書体か、さらには個性的な筆致で書かれていることも多いので、日頃から不思議に思っていたことだ。 御朱印に書かれる神社の名前には、大抵そこで祀られている神様の名前が入っている。この鶴岡八幡宮であれば"八幡神"がそれにあたる。神様の名前が入っていなかったとしても、ご神体を祀る社の名には相応の力がある。 「伊勢に行かれたことはありますか? 伊勢の内宮では御朱印は日付と朱印のみなんですよ。お名前を書かせて頂くなど恐れ多くてできないからだそうです」 なるほどー。 伊勢に行ったのは高校の修学旅行のときのことなので、御朱印を見たことはなかったが、それは興味深いと思った。 (でも、朱印と日付だけはちょっと寂しくない?と思ってしまうのも、女心) 「はい、できました。どうぞお納めください」 最初に手渡したときと同じ動作で両手で差し出された御朱印帳を受け取って、ありがとうございますと頭を下げた。 「良いきっかけになりました。背中を押されるくらい、いいお話と綺麗な字でした」 そう言ったら、最後に神職さんは「そんな風に言っていただけて光栄です」と少しはにかんだ。
by norlie
| 2013-05-06 15:52
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